2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主役といえば、「日本資本主義の父」こと渋沢栄一です。埼玉県深谷市の富農の家に生まれ、明治維新の裏側で官僚として国の基盤づくりに奔走し、野に下ってからは約500の企業の設立に関わった、近代日本の発展には欠かせない人物でした。
今回はそんな渋沢栄一について、9個のポイントに絞って解説します。
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渋沢栄一とはどんな人?何をした人?実は埼玉県深谷出身!
深谷にある渋沢邸「中の家」主屋
渋沢栄一は幕末から明治・大正・昭和にかけて活躍した埼玉県の深谷市出身の実業家です。約500もの会社の設立にかかわり、約600もの社会事業を支援するなど数々の功績を残しました。
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名前はよく知られている渋沢栄一ですが、あまりの功績の多さから「結局何をした人なの?」「どんな人物だったの?」ということはあまり知られていないように思います。
この9つのポイントに絞って説明していきます。
渋沢栄一とは①農民から実業家へ
渋沢栄一ゆかりの鹿島神社
渋沢栄一は天保11年2月13日(1840年3月16日)、武蔵国血洗島(現埼玉県深谷市血洗島)の富農(耕地を多く所有している裕福な農民)の家に生まれました。
学問を重視した父の影響で、わずか6歳の頃から「論語」などの漢文を読み、いとこの尾高惇忠の私塾で勉強。
もちろん家業の畑作や藍玉の製造・販売、養蚕なども手伝っており、特に藍玉の買付の際は、番付表を作って生産者の競争意識を高め、より品質の良い藍玉を作れるような取り組みをしています。
藍玉:藍の葉から作られる染料の一種
渋沢栄一の青年期は幕末の激動の時代。渋沢栄一自身も尊王攘夷思想(天皇を敬い、外国勢力を日本から追い払うという思想)に染まり、高崎城の襲撃などを計画しますが、思いとどまります。
その後は縁あって一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に仕えて一橋家の財政改革に取り組みます。
才覚を表して出世し、慶応3年(1867年)からは慶喜の弟・昭武(のちの水戸藩主・徳川昭武)とパリの万国博覧会に参加するため渡欧しました。

欧州をはじめとした海外諸国での経験は渋沢栄一に大きな衝撃を与えました。
パリ万博で展示された電気通信をはじめとした世界の最新技術のすばらしさ、銀行や株式会社などの欧州経済の仕組み、スエズ運河工事という「公共事業」の進め方…….帰国後に渋沢栄一が日本で実施した政策や事業の根底は欧州での経験によるものが大きかったと言えるでしょう。

明治維新後に帰国した渋沢栄一は金融商社「商法会所」を立ち上げ、静岡藩の財政再建に注力。
その手腕に着目した明治政府から勧誘され、民部省(兼大蔵省)租税正として政府に仕えます。民部省では省内を改革するための組織を立ち上げ、新しい国の仕組みづくりに邁進します。

当時の明治政府は近代化を推し進めようと、さまざまな施策を実施しています。
そのためにはお金が必要です。当時、大蔵省には各省から大量の予算申請があがっていましたが、渋沢栄一は歳入が正確に把握できない状態で巨額な金額を使うのは反対、という立場でした。
この件で軍事費をもぎ取ろうとする大久保利通などと争うことになります。
こうした財政に関する官僚同士の争いや、もともと商工業の発展に興味があったことなどから、渋沢栄一は明治6年(1873年)6月、大蔵省を退官しました。
[ad1]渋沢栄一とは②日本初の銀行を設立

大蔵省を退官後、渋沢栄一がまず着手したのが銀行の設立です。渋沢栄一は、日本の発展には国の財政の基盤となる商工業の振興が必要で、そのためには金融機関を整備するべきと考えていました。
明治6年(1873年)には第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立し、頭取に就任しています。
とはいえ、最初から銀行が成功したわけではありません。第一国立銀行は江戸時代からの豪商「小野組」「三井組」と民間の出資で設立しましたが、銀行発足から1年後に小野組が経営破たん。
渋沢栄一は小野組の財産を処分して何とか乗り越えました。
渋沢栄一とは③日本初の株式会社を設立

渋沢栄一が立ち上げた第一国立銀行は「日本初の株式会社である」という説があります。第一国立銀行は渋沢栄一が大蔵省時代に成立に関わった国立銀行条例に基づいて設立。
一方、坂本龍馬が慶応元年(1865年)に立ち上げた「亀山社中」や、幕臣で日米修好通商条約批准の遣米使節を務めた小栗上野介が慶応3年(1867年)に設立した総合商社「兵庫商社」が日本初の株式会社だという説もあります。
また、「日本の商法に基づいて設立された最初の株式会社」は明治26年(1893年)の「日本郵船」。
三菱財閥の創業者の岩崎弥太郎が設立した「郵船汽船三菱会社」と渋沢栄一らによる「共同運輸会社」が合併した会社でした。
[ad1]渋沢栄一とは④世界遺産『富岡製糸場』の設立

平成26年(2014年)に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界文化遺産に登録された富岡製糸場。
明治政府が外貨獲得のため、主な輸出品だった生糸の品質向上と増産をめざし、海外の技術を導入して造られた官営工場ですが、その設立にも渋沢栄一は関わっていました。

当時大蔵省の租税正だった渋沢栄一は実家で養蚕業(ようさんぎょう、蚕の繭から生糸を作る産業)の手伝いをしていた知識を生かし、富岡製糸場の設置主任として富岡製糸場の開業準備に尽力しました。
ちなみに、富岡製糸場の初代場長は尾高惇忠。栄一に論語の手ほどきをしてくれたいとことタッグを組んでのプロジェクトでした。
渋沢栄一とは⑤約500社の企業設立に携わる

渋沢栄一は約500社の企業の設立に関わりましたが、そのほとんどで会社の経営が順調になると持ち株を売却して経営から手を引いています。
起業を私物化しようとはしなかったのは、「公益」にこだわった彼の理念によるものでしょう。
渋沢栄一が設立にかかわった企業は、先に挙げた第一国立銀行をはじめとした銀行のほか、保険、鉄道、ホテル、建設、電力、ガス、化学、紙、貿易、医療など多岐にわたります。
代表的な企業をいくつか見てみましょう。
ちなみに、渋沢栄一の名が残る上場企業は「渋沢倉庫」のみです。
[ad1]渋沢栄一とは⑥約600もの教育や社会活動に貢献!

渋沢栄一は企業を設立する傍ら、教育や社会活動も熱心にこなしました。生涯で約600の社会貢献活動に関わったというから驚きです。
人材育成を重視した渋沢栄一は、「商法講習所(現一橋大学)」の運営や「大倉商業学校(現東京経済大学)」の創立に関わりました。
また、海外渡航経験から女性教育の必要性を説き、「東京女学館」や「日本女子大学校(現日本女子大学)」も創立しています。日本女子大学校では1931年4月に91歳で3代目の校長に就任し、同年11月に亡くなるまで務めました。
東京都健康長寿医療センターにある渋沢栄一像
社会活動としては、明治5年(1872年)に設立された、孤児や障がい者、今でいうホームレスなどを収容するための福祉施設「東京養育院(現東京都健康長寿医療センター)」の院長を長年にわたり務めました。
明治41年(1908年)に設立された「中央慈善協会(現全国社会福祉協議会)」では会長に就任しています。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の際は、自らが被災者でありながら震災救援・復興事業に尽力しました。
渋沢栄一とは⑦ノーベル平和賞の候補にも

実は、渋沢栄一は昭和1年(1926年)と翌年の2回にわたり、ノーベル平和賞の候補者として名が挙がっています。
日米間の相互理解促進のための民間外交を中心とした国際親善の活動が評価されて推薦されたもので、日本からだけはなく米国からも推薦状が出されていました。
日本人として平和賞の候補者になったのは渋沢栄一が2人目ですが、2年連続で候補にあがったのは渋沢が初めてのことです。

渋沢栄一は大正5年(1916年)、76歳で実業界を引退し、その後は教育・社会活動に加え、民間外交に力を注いでいました。
昭和2年(1927年)にはアメリカの宣教師、シドニー・ギューリックが日米親善のため、約1万2000体の青い目の人形を日本に贈るプロジェクトを提案。
この青い目の人形を受け入れたのが渋沢栄一で、「日本国際児童親善会」という組織を立ち上げ、お返しに58体の市松人形を贈っています。
渋沢栄一はノーベル平和賞は残念ながら受賞には至りませんでしたが、世界的な賞の候補者として名が挙がったということは、それだけでも大きな意義がありますよね。
ちなみに初めて日本人がノーベル平和賞を受賞したのは1974年(昭和49年)で、「非核三原則」を提唱した佐藤栄作元首相が受賞しました。
[ad1]渋沢栄一とは⑧執筆した「論語と算盤(そろばん)」は多くの著名人の愛読書に
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渋沢栄一の代表的な著作は「論語と算盤」です。100年以上前に出版された本ですが、現在でも起業家やビジネスマンをはじめ多くの人々に読まれています。
「論語と算盤」は渋沢の愛読書である「論語」の考え方を根底にしたもので、「論語=道徳」と「算盤=利益を追求する経済活動」は両立可能であること、「自らの利益のみを求めず、公益的な視点で経済を発展させることが国を豊かにすることにつながる」という「道徳経済合一説」が語られています。
また、渋沢栄一は「一滴一滴が大河になる」という考えから、公益を重視した上で資本や人材を集めて事業を進め、そこで得た利益を出資した人たちで分かち合う「合本主義」も提唱しています。
「論語と算盤」を熟読している著名人も多く、例えばサントリーホールディングス社長の新浪剛史氏、プロ野球監督の栗山英樹氏、メジャーリーガーの大谷翔平選手が愛読書として名を挙げています。
渋沢栄一とSDGs

渋沢栄一が「論語と算盤」で唱えた経営思想とSDGs(Sustainable Development Goals、持続可能な開発目標)と通じるところがあることから近年再度注目を集めています。
SDGsとは、平成27年(2015年)に国連サミットで採択された、令和12年(2030年)までに持続可能な社会を実現させるための目標のこと。
貧困、飢餓、健康、教育、成長・雇用、不平等、平和など17の目標と169のターゲットから構成されており、発展途上国、先進国を問わず世界各国で取り組みがなされています。
SDGsのスローガンは「誰一人取り残さない」。これはまさに、渋沢栄一の考えにつながるものでしょう。SDGsが採択される100年も前から、渋沢栄一は経営者が利益を独り占めしては持続可能な社会は実現できないことを説いていたのです。
渋沢栄一とは⑨新一万円紙幣に!

渋沢栄一は令和6年(2024年)上期から発行される予定の新しい1万円札の肖像としても選ばれています。財務省によれば、新紙幣の肖像は明治以降の文化人から選んでおり、渋沢栄一は新たな産業の育成など日本の近代化に大きく貢献したことから選ばれたとのこと。
なお、1万円札の変更は、昭和59年(1984年)に聖徳太子から福沢諭吉になって以来。久しぶりの変更ですね。
[ad1]深谷に”渋沢栄一記念館”も

渋沢栄一についてもっと知りたい!という人におすすめなのが、出身地の深谷市にある「渋沢栄一記念館」。渋沢栄一の遺墨や写真などのゆかりの品々が見学できるほか、なんと渋沢栄一アンドロイドが講義してくれます。見学は2日前までの事前予約制なので注意しましょう。
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「日本資本主義の父」渋沢栄一とは
「日本資本主義の父」、渋沢栄一。資本主義というと利益重視のイメージがありますが、あくまでも道徳ありきの経済活動であることを渋沢栄一は説いており、現代に生きる私たちに大切なことを教えてくれています。
大河ドラマ化されたことで、今後さらに注目が集まりそうですね。

旅行メディアから出産を機に独立した、埼玉県在住のフリーライターです。得意分野は旅行と歴史と食事。最近、公園やテーマパークを中心とした県内の幼児連れのお出かけ先には詳しくなりました。埼玉県の魅力を皆様に伝えられるよう、頑張ります!